自然のままに
手を加えず,手を抜かない。宮ザキ園は豊かな自然環境の茶畑に育つ茶葉を丁寧に摘み取り,香り豊かなお茶へ仕上げております。
愛知県岡崎市旧額田町宮崎地区に位置する宮ザキ園は,自園で農薬や化学肥料を使わずにお茶の栽培を行い,これを日本茶,わ紅茶など茶製品に加工・製造し,日本国内外の消費者の皆さまや業務用のお客様向けに販売しております。産地問屋として,茶農家として,宮ザキ園はお茶のある暮らしにこだわり,おすすめできる日本茶を岡崎で作り続けるために数々の挑戦をしてまいりました。なかでも2011(平成23)年に農林水産大臣から6次産業化の事業認定を受けた「わ紅茶」の加工・販売の取り組みは各処から注目され,日本茶の新しいカテゴリをつくりだしつつあります。
宮ザキ園が位置する愛知県岡崎市宮崎地区では,400年程前から山々や清流に囲まれた豊かな自然環境のなかで,湧き水を使ったお茶の栽培が行われてきました。この地区は,室町時代からすでに栄え,近くには室町幕府三代将軍の足利義満によって建てられた天恩寺など,室町時代の寺社が残っています。
宮崎地区の界隈は、農民や武士の健康維持のために,お茶の栽培を徳川家康公が奨励しており,当時,米の代わりにお茶を年貢として納めていました。長く,信仰の対象となってきた本宮山の麓にあり,林業とならんでお茶の生産が地区の産業を担ってきました。明治から昭和にかけては,宮崎地区のお茶は全国の三大銘茶として重んじられてきました。
そうした中,宮ザキ園は,産地に位置し,自ら茶の栽培,加工,卸売販売を行なう「産地問屋」として歴史を繋いできました。宮ザキ園の創業は,江戸時代後期,1820年代(文政年間)と伝えられています。初代園主は梅村喜六,二代目梅村㽵次郎,以降,四代目梅村秋治,五代目梅村芳正と代を重ね,現在は,6代目梅村篤志が運営に携わっております。
梅村篤志は,初代の喜六が創業した頃と変わらぬ味と香り,和の心,伝統,文化を守るべく,「自然のままに」をコンセプトにお茶の栽培・加工・販売を続けてきました。15年程前には、県内茶農家では一番最初にお茶の無農薬,有機栽培の認定を受けるなど,味や香りのみならず,体に優しく,安心して飲めるお茶の栽培・加工・供給にこだわり続けております。
代々続いた家業を見て育った篤志は地元愛知県立安城農業高等学校を卒業後,静岡県にある農林水産省管轄の国立茶業試験場(現国立研究開発法人 農業・食品産業技術総合研究機構 野菜茶業研究所)を経て,家業を継ぎました。「大量生産できない反面,中山間地域だからこそできることがある。中山間地にある茶産地という強みを活かし,日本はもとより世界で注目が集まっている安心・安全でおいしいお茶を求める声に応えたい。」という思いから,六代目は在来種である本宮山でとれる種子,「本宮」を使って独特のお茶を栽培している他,様々な種類のお茶を,こだわりの手法で栽培してきました。
高度成長期,農業の機械化が進み,お茶の産地が伝統的な中山間地から平地へと移動していきました。沢筋の谷あいにあったお茶は,昼夜の寒暖の差と霧が発生しやすい条件を備えていましたが,灌漑装置や機械収穫機などは平地のほうが取り回しがよく,山間地にあって平地の少ない宮崎地区と大量生産ができる静岡県や鹿児島県との間では,生産量に格差がついていきました。また,若者が都会に労働力として出ていき,担い手の高齢化が進み,宮崎地区のお茶の事業者数はかなり減ってしまっています。
加えて,近年では,お茶をいれてのまず,ペットボトルいりのものを買って飲むという方が増えています。茶産地や茶農家は,こうしたお茶のペットボトル化,つまり安く大量にそこそこの品質の茶葉を供給するという市場の変化に対応していかなければならなくなりました。これもまた,伝統的な中山間地の茶の栽培には大きなインパクトを与えました。
こうした環境変化の中,6代目,篤志は「受け継がれてきた暖簾を自分の代で絶やすのは忍びない。地域全体を盛り上げることができたら」という思いで,様々な挑戦をしてきました。
父の時代まで宮崎園と称していた屋号を,篤志はより新しいイメージの表記,「宮ザキ園」とし,卸売中心だったお茶の販売先をあらため,直売に舵をきりました。パッケージも,ありきたりの緑色のプラスチックフィルム容器から,より宮ザキ園のこだわりである「自然のままに」をダイレクトに表現できるクラフト(紙)容器に変更し,商品の名前も筆文字に改めます。こうして,内外に,新しい茶園を目指すのだという狼煙を上げたのです。
茶業試験場から実家に戻った篤志は,小中学校の同級生たちがつぎつぎと地元を離れ,都市部で就職していたのを見て,強い危機感を持ちました。宮崎地区は高齢者ばかりとなり,空き家も増え,茶畑も荒れてしまう。そうなっては,自分一人ががんばっても,宮崎地区がなくなってしまう。なんとかしたいという思いから,有名な観光地,「くらがり渓谷」を舞台に若者向けの音楽イベントを企画し,地元を説得して回りました。当初は何色を示していた自治体や施設管理団体関係者,地元有力者らも,イベントが会を重ねるごとに参加者や運営者が増え,賑やかになっていくのを見て,次第に態度を軟化させ,地元活性化のための様々な相談事が,篤志のもとに寄せられるようになりました。また,地域の資源を活用して町を活性化させたいと,NPO法人「インディアンサマー」の設立に参画し,スポーツイベントや福祉活動など,様々な活動に取り組んでいます。
四代目秋治は,日本から茶葉が世界各地に盛んに輸出された戦前,戦後,紅茶作りにたずさわっていました。また,五代目芳正は,大手農産物・食品商社の一員として,紅茶の貿易担当として世界をとびまわっていました。そして,篤志は,茶業研究所で,紅茶作りを研究していたのです。こうした様々な要因をきっかけに,三河わ紅茶の開発に成功した宮ザキ園は,2011(平成23)年には,自ら栽培したお茶と地元の産品や農産物を活用したハーブティーや紅茶の加工・販売で6次産業化の事業認定を受けました。
2012年12月の香港市場視察をきっかけに,宮ザキ園では,日本国内向けの販売のみならず,海外販路の開拓にも挑戦し続けています。
これまで,アメリカ・ニューヨークでの展示会出展,香港のスーパーでの店頭試飲販売,マレーシア・クアラルンプールの百貨店での店頭試飲販売,イギリス・ロンドンの百貨店での試飲販売など,世界各地で日本の緑茶やほうじ茶を多くの方たちにご紹介してまいりました。また,日本国内の外交関係者向けの会合でも,宮ザキ園のお茶をご紹介させていただきました。
古い加工場を改装し,宮ザキ園は直営店で長らく自園加工のお茶の販売をしております。
店舗前の茶畑にはステージを設置し,茶摘み体験の休憩や野点にご利用いただけるステージも設置しました。
また,店舗の一角を改装し,かき氷などお茶を使った甘味をお楽しみいただいたり,お点前を楽しんでいただける,茶寮一匙(ひとさじ)を開設し,より多くのお客様に,お茶の世界を楽しんでいただけるようになりました。
これからも宮ザキ園は,歴史ある岡崎のお茶「宮崎茶」を次世代につなぐため,本宮山から湧き出る清らかな水を使い,「自然のままに」 をコンセプトに,「手を加えず,手を抜かない」,茶樹の生命力を活かした自然農法で栽培していきます。宮崎茶は毎年の収穫を一番茶のみとし、味や品質の維持・向上に努め,初代園主梅村喜六から伝わり積み重ねてきたお茶作りの知恵と経験を活かし,一つ一つの工程に時間をかけ,丁寧に心のこもった製品に仕上げ,自信を持ってお勧めできるお茶を提供してまいります。
需要拡大に伴い,現在,地元宮崎地区で宮ザキ園が管理する茶畑の拡大を考えています。宮崎地区に関わる方で所有する茶畑の管理継続を心配されていらっしゃいましたら,どうぞ宮ザキ園にお声がけください。
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